the COMMON SENSE of teaching foreign languages

外国語教育の常識

 

 

    1972年にEducational Solutions. Inc(米国ニューヨーク)より初版が出版されました。

     英語版は issuu で閲覧できます。

     翻訳版はこちらから購入できます。

 

     内容 

     1. Freeing the Students(生徒を自由にする)

     2. The Most Basic Component (最も基礎的な要素)

     3. The Next Step(次のステップ)

     4. Perseption (知覚)

     5. Independence, Autonomy and Responsibility(独立、自立、責任)     

     6. Use of Rods and Charts (棒とチャートの使用) 

     7. Exploiting the Functional Vocabulary (機能語の活用)

     8. Reading and Writing in the New Language(新しい言語の読み書き)  

     9. Expansion of Vocabulary(語彙の拡張)

     10.Evaluating Progress(進歩の評価)

     11.Short Passages And Stories(短い節集と物語)

                                日本語訳は下記翻訳版より

 

 

私たちは自分を表現するために言語を自由に使う時、その言語が使い手に求める様々なこと(音や構造など)から一切解き放たれている状態を知っている。そこで「どんな時に『生徒を自由にしている』と言えるか」と自問し、答えをみつけるための時間を教師がさらに使うことが望ましい。

                       「1.生徒を自由にする」より

 

 

 

 

生徒に教材を提供するのに順序があるとすれば、生徒にとって適切な瞬間に最大限のものが生み出せる練習を探すことで、その順序を定めることができる。

                        「3.次のステップ」より


「常識」

 

翻訳者 渡部 美智子

 

日本では社会的儀礼としての知識だが、英米では人生の経験から身についた日常の実用的な思慮分別をいう。                       研究社 新英和中辞典

 

何十年も前にこの本に出合った時、「外国語教育の常識」って何だろう、とそのタイトルに興味を持ちました。その当時も、英語を教えていたのですが、自分の中で答えが見つかりそうで、はっきり「これ!」というものに行き着くことはできませんでした。

 

その疑問を持ったまま序文を読み始めると、「私たちは物事を心の中に保持するようにできている。ほとんどの教師がするほど暗記を強調する必要はない。気づきを通して出合ったことは、よりしっかり保持するものである。」私自身、暗記中心の学習法で学生時代を過ごし、学びの喜びをあまり体験せずに来たので自分の授業ではそれを繰り返したくないと思っていました。では、どうすればよいのか。「気づきを通して出合う」・・・その頃サイレントウェイを勉強していましたがこの点については模索中でした。

 

この本を読むことで何か掴めるかもしれないと思いつつ序文を読み進めていくと最後に「私たちは人間が言語を学ぶことに注目しているのだから、気づきに注目しているのであって、知識の蓄積を見ているのではない。つまり、博識ではなく熟達である。気づきは教師に一瞬一瞬何をすべきか知ることを強いる。熟達は生徒に学ぶべきことに没頭し練習することを強いる。熟達するため生徒にとっての必然が教師に沈黙を強いるのである。」心の中にぼんやりとあった「学ぶこと、教えること」の概念がはっきりと文字になって迫ってきた気がしました。教師が目指すのは生徒の熟達で、教師、生徒ともに気づきを通して教え、学んでいく。そのためには教師の沈黙が必然であり、だからサイレントウェイなんだ、と改めてうなずいたことを覚えています。

 

次に浮かんできたのは、教師の沈黙はどうして生徒の熟達につながるのか、でした。読み進んでいくと人間の根本にたどり着くことがわかり、本から目を離してしばらく考えていたことを覚えています。

 

その後、何度も考え納得する場面がありました。その中には、現在私のモットーとなっていることがいくつもありました。一例は「私たちがこの仕事の中で従ってきたルールは、いつでも可能な時に一つの新しい単語または表現を一度に一つずつ導入し、次の一つが導入される前に、それを習慣化することだ。このやり方によって、習得はドリル (機械的練習)や無駄な反復練習なしで起こり、土台は組織的に築かれ、学習対象言語がどんどん統合されていき、ネイティブスピーカーがするように生徒が教材を自由に正確に使うことが保障される。」これはいつも私と共にある言葉です。

 

しかし、実際に生徒の前に立つと本当に難しいことが多いのですが、どう授業を進めるか、チャート、棒、物語、などのチャプターで具体的な例がたくさん示されていて、教師として大いに勉強になってきました。

 

私は「学ぶこと、教えること」を深く考えて、学びがおきるような思慮分別・判断力、つまり「常識」を持って生徒に向かっているだろうか。この本を開くたびに問いかけられている気がします。

 

このようなバックグラウンドで、本書を多くの人たちに知ってもらいたいという思いで翻訳を始めました。アラード房子さんに私の訳したものを一文ずつ見ていただき、二人で検討して仕上げました。ただ、「いつか、戻ってもう一度見直しましょう。」と話し合っていたのです。それは、私たちはDr. Gattegno の理論や教授法の理解、実践の途中にいるのだから翻訳が完成したとは言えないのだ、という自身への課題でした。

                      

 


読者からのコメント

 

■ 覆された「常識」  Junko Shinada

この本と出会ったのは日本語教師になって数年後のことでした。社会人に教えていた私は、授業の内容ややり方を自由に選んでよい環境にいました。しかし、当時の自分の「常識」は、教科書に示された内容をその順序で教えること、それが基礎固めになるというものでした。仕事の都合で授業をキャンセルしたり、予習復習をする時間のない社会人にはそれが通用せず、試行錯誤の繰り返しでした。既にサイレントウェイに出会いワークショップも受け大きな可能性を感じていましたが、全体像が見えずにいました。そんな時、この本が私の「常識」を根本的に覆してくれたのです。学習者の役割、教師の役割、教具・教材の役割が明確になり、学習者として、教師として何に取り組めばいいのか迷うことがなくなりました。もちろん、よい学び手になること、それ以上によい教師になることの道のりは遠いです。しかし、迷うことのない道標を示してくれるのがこの本だと思います。それから20年以上、ゆっくり楽しみながら学習者と教師の道を歩いています。

翻訳版では、さらに細部を理解することができました。緻密な作業に膨大な時間を費やして翻訳書を完成させてくださった渡部美智子さんに心より感謝いたします。